<?xml version="1.0" encoding="utf-8"?>
<feed xmlns="http://www.w3.org/2005/Atom">
    <title>このまちの人</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://kunitachi.town-info.com/people/" />
    <link rel="self" type="application/atom+xml" href="http://kunitachi.town-info.com/people/atom.xml" />
   <id>tag:kunitachi.town-info.com,2007:/people//3</id>
    <link rel="service.post" type="application/atom+xml" href="http://kunitachi.town-info.com/MT/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=3" title="このまちの人" />
    <updated>2007-02-04T08:38:12Z</updated>
    
    <generator uri="http://www.sixapart.com/movabletype/">Movable Type  3.2-ja-2</generator>
 
<entry>
    <title>ロングインタビュー vol.4 南養寺 前住職 佐伯啓史さん</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://kunitachi.town-info.com/people/2007/01/_vol4.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kunitachi.town-info.com/MT/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=3/entry_id=79" title="ロングインタビュー vol.4 南養寺 前住職 佐伯啓史さん" />
    <id>tag:kunitachi.town-info.com,2007:/people//3.79</id>
    
    <published>2007-01-17T02:54:36Z</published>
    <updated>2007-02-04T08:38:12Z</updated>
    
    <summary>ＪＲ南武線の矢川駅から南に歩いて5分あまり。甲州街道を越えた先、左手に見えてくる...</summary>
    <author>
        <name>webmaster</name>
        <uri>http://cycom.shop-info.com/</uri>
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://kunitachi.town-info.com/people/">
        <![CDATA[<p>ＪＲ南武線の矢川駅から南に歩いて5分あまり。甲州街道を越えた先、左手に見えてくるお寺が「谷保山南養寺」（臨済宗建長寺派　1347年開創）。北鎌倉の建長寺を本山とする禅寺で、谷保を中心とした檀家衆の心の拠り所として、650年前からこの地にある。
今回の主役は、その南養寺の前住職、佐伯啓史（さえきひろぶみ）さん（75歳）。</p>

<h3>谷保の念仏講とご詠歌</h3>

<a href="http://kunitachi.town-info.com/people/images/nanyoji_image1.html" onclick="window.open('http://kunitachi.town-info.com/people/images/nanyoji_image1.html','popup','width=640,height=480,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://kunitachi.town-info.com/people/images/nanyoji_image1-thumb.jpg" width="240" height="180" alt=""  style="float: right;"/></a><p>太い木の柱のどっしりした山門をくぐると、静かで落ち着いた境内がある。2006年2月15日の午後。寺の本堂には、檀家の女性たち40人ほどが集っていた。
今日はお念仏の講の日。本尊の前で佐伯さんが般若心経をとなえ、続いて全員が唱和する、というのが「お念仏」である。
「今、はじまるお念仏は云々……ナンム、アンミ、ダ～ブツ（南無阿弥陀仏）、アミダ～ブツ～。ナンム、アンミ、ダ～ブツ、アミダ～ブツ～」。
独特の節回しで繰り返し唱和される「お念仏」に、時折、それぞれが手にもつ白銀の小さな鐘が一斉にジーンと鳴らされる。その響き、振動は耳に心地よくしみわたり、聞いているといつのまにか日常のざわつきを忘れ、不思議とだんだん気持ちが落ち着いてくる。</p>

<p><a href="http://kunitachi.town-info.com/people/images/image41.html" onclick="window.open('http://kunitachi.town-info.com/people/images/image41.html','popup','width=640,height=480,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://kunitachi.town-info.com/people/images/image4-thumb.jpg" width="240" height="180" alt="" style="float: right;"/></a>「お念仏」は、座禅と同じく「悟り」をひらくための行のひとつ。佐伯さんによれば、
「禅宗というのは、自己本来の中にある仏様の働きに目覚めて、それを日常生活に活かしていこうという宗派なのです。つまり信仰というより、悟りを願う。悟りとは、言葉でいえば、カラッとした何もないせいせいとした状態。こだわりのない解放された瞬間。般若心経で空という状態を、臨済宗では、無といいます。無であって一切であって、すべてであるけど何もない状態」
じゃあ、それは、とても幸せな状態なのですね？
「いえいえ、幸せであるかどうかも、もうとうに越えているのですよ」と佐伯さん。
あ、なるほど……。</p>

<p>たとえば「お金が欲しい」とか「えらくなりたい」という欲望はもちろんのこと、この「幸せになりたい」という願いも俗世の執着心から生まれる。人は何かに執着があるから悩み、七転八倒する。その苦しみからすべて解放され、無（我）の境地＜悟り＞に至るために、禅の修行がある。
この念仏講、谷保地区では徳川時代から続く善光寺系統のもので、公式にはお釈迦様の涅槃の２月15日、降誕の４月８日、10月16日の観音様の日、10月22日薬師様の日に、それぞれ開かれている。</p>

<p>この日はさらに、「ご詠歌」の稽古もあった。
「ご詠歌」とは仏様をたたえる歌。キリスト教でいえばゴスペルにあたるものだが、こちらは三十一文字（みそひともじ）の短歌形式で、これにも独特の節回しがあり、七五調の長いものは「和讃」と呼ばれる。
南養寺では代々口承で伝わってきたが、亡くなった佐伯さんの母親が文字として書きまとめ、現在はその譜面をテキストとして使っている。
稽古のあとは、女性たちが持ち寄ったお菓子や果物、煮物などをつまみながら世間話に花が咲き、あちこちで楽しい笑い声がおこる。参加者は、若い方でも50代。ようやく子育てがおわり、これからは親の介護が始まるという方もいるだろう。日常を忘れるひとときをお寺で過ごす。昔ながらの地縁が生きている谷保界隈である。


]]>
        <![CDATA[<h3>戦前から戦後にかけての寺の暮らし</h3>

<p>明治元年生まれの佐伯さんの義理の祖父は、山岡鉄舟（書家としても名高い幕末の剣士。南養寺の本堂には鉄舟の扁額が飾られている）のお弟子で、籠手どりの名人だった。長い真っ白なひげがまるで仙人のようで、観音堂に畳を敷き、地元の子どもたちに剣道を教えていた。祖父は清貧をつらぬき、冬なのに夏ごろも一枚で一生過ごした、といわれる人だが、やがてこの寺の住職となった先代の父は、清貧をつらぬくにしても、みっともないのはダメだと言い、家族を養う現金収入のために、平行して教職の道も選ぶ。</p>

<p>戦前には十町歩ほどの地主となり、小作料も入る佐伯家であったが、谷保の米はおいしくないからとなかなか売れず、食べていくのは大変だったという。
佐伯さんの妹の澤保子さんによると、「小作の人が戦争に行ったからと返してきた田んぼがありまして、それを母がすることになって、幼かった私はかごに背負われて、四谷新田のところまで毎日、母と通ったのを覚えています。仕事が終わって帰ってくると、お月様が出ていて道はもう真っ暗。年に何度も法事があるわけでもなく、つましい暮らしでした。父が病気のときは、立川からお医者さんが人力車で来るんですけど、一度でいいから乗ってみたいなあ、と子ども心にあこがれていたものです」
戦争がおわると農地解放令で、地主はみな、自分が耕作していた田んぼ以外は手放さざるを得なくなった。
「だから今から考えると、少しでも田んぼをしていてよかったわけですね。村長していた本田さんは大変でした。村長は追放令だし、農地も自分で耕していなかったですから」</p>

<p>戦後も母は稲作を続け、4人の子どもたちの学費を稼ぐためにときに闇で米を売ることもあった。それでも贅沢をしないように暮らしてきたが、あるとき、とうとうその最後の田んぼを手放すことになる。1801年に建てられた本堂の屋根を取り替えることになり、寄付だけではとても足りず、お金が必要になったのだ。
「屋根は萱葺きでしたが、毎年少しずつ萱を換えるためには、檀家の人たちが萱のたくさん生えている稲城あたりまで、牛車でとりに行っていたんです。その人手も経費も大変で、それにかつては10人あまりいた萱葺きの屋根職人もだんだんいなくなった。雨漏りをしのぐために、ところどころトタンでまるでボロ継ぎのように補修していたんです」</p>

<p>昭和56年、本堂の屋根は、現在のような銅葺きとなった。本堂の中の建具は新しいが、柱は200年前の当時のまま。谷保天満宮は天保５年に火災にあっているため、南養寺のほうが40年ほど古いという。現在、本堂、山門、鐘つき堂が市の文化財保護指定となっている。</p>

<h3>「生活の中でこそ悟りが深まる」</h3>

<p>そんなお寺に育った佐伯さんは「世渡りが上手でない。お寺の息子だからガキ仲間でも柿どろぼうにはなれない。だから人気がないから指導者にもなれない」子だったという。
国立一小から府立二中（現立川高校）を経て、駒沢大学仏教科へ。卒業後は宗教関係の雑誌の編集、原水協の平和運動、仏教者平和懇談会の事務など、いろいろな体験をした。
「常に反主流、反権力の側にいようとしました。宗派を問わず、平和のためにできることをやろうと思っていた。社会実践と信仰は別だという二元論の人もいたが、私は悟りの中にこそ社会実践がはいらないとダメ、という考えです。仏教左派の考えですね」</p>
<p>今から30年前のこと、昭和40年から50年にかけて、谷保に東京都の北多摩下水道２号幹線計画がもちあがったとき、当時、市の社会教育委員をしていた佐伯さんは、その委員職を辞してまで、自ら世話人として反対運動の先鋒に立ったことがある。</p>

<p>その計画が、江戸中期に多摩の新田開発などを手がけ、地域農民のリーダーとして知られる矢澤大堅和尚（臨済宗黄檗宗の僧侶）ゆかりの円成院跡を通るものだったからだ。
「そのがけを崩すのも反対、大堅さんの遺跡をドブにするのも反対しました」。
大堅和尚は、国立市でもその功績が歴史上明確な、唯一の人物。粘り強い反対運動の結果、計画は一部を変更し、平成にはいってから２号幹線は整備された。
「公共事業」と「自然を守る」という課題は、現在でも地域の意見を二分する。今でこそ、貴重な湧水やハケを守ろうという人は少なくないが、当時は反対する人もごくわずか。裏では支持してくれた人もいたが、「坊主を辞めさせる会」ができて、檀家から直訴されたこともある。
「寺の裏の庭を便利な道路にするからと市にいわれて、それにも反対した。開発が悪いわけではないが、大切なものはできるだけ残そう、という気持ち。便利、利益、功利など三利を目指すと、お互いに助け合って暮らそうという気持ちがなくなる」。
今は穏やかなお顔の佐伯さんだが、言うべきことは言う、まっすぐな人なのだ。</p>

<p><a href="http://kunitachi.town-info.com/people/images/nanyoji_image3.html" onclick="window.open('http://kunitachi.town-info.com/people/images/nanyoji_image3.html','popup','width=640,height=480,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://kunitachi.town-info.com/people/images/nanyoji_image3-thumb.jpg" width="240" height="180" alt="" style="float: right;"/></a>
3年前、胆のう炎の手術を受けてから、45年間続けた住職を息子の貴文さんに譲った。
今では、毎月のご詠歌の稽古を指導するほか、月に何回かは、鎌倉の建長寺に出向いて「鎌倉流ご詠歌講」の総監として、後進の指導にあたっている。</p>

<p>そのご詠歌を通じて、さまざまな生き方の道を説くのも佐伯さんの役割である。
「たとえば彼岸に先祖をお参りするのは、ただ季節の移り変わりの真ん中、っていう意味だけではないんですね。中道が大切っていうことを言っている。コマでも一番まわっているときが安定しているでしょう。空に凧を揚げるのでも、シッポが長すぎれば落っこちてしまう、軽すぎればまわっちゃう。ちょうど良い加減のところ、つまり人でいえば、その人らしさが一番でるときが一番いい。それが悟りに一番近い状態だということです」</p>

<p>私らしさに目覚めるのが、中道…。
凡人には「悟りへの道」はとても遠そうだけれど、これならば、今の若い人にも通じる言葉かもしれない。</p>

<p>毎日昼の12時、谷保界隈には、南養寺の鐘つき堂の鐘が必ず聞こえる。
戦後になっても変わらない、国立南部の暮らしの風景である。</p>

（取材・文　田中えり子）]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>ロングインタビュー vol.3 降矢ななさん</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://kunitachi.town-info.com/people/2005/12/_vol3.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kunitachi.town-info.com/MT/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=3/entry_id=19" title="ロングインタビュー vol.3 降矢ななさん" />
    <id>tag:kunitachi.town-info.com,2005:/people//3.19</id>
    
    <published>2005-12-07T09:57:21Z</published>
    <updated>2007-04-05T03:09:23Z</updated>
    
    <summary>トカゲとキツネと森のともだち トカゲが主人公の不思議キャラ 1986年、トカゲを...</summary>
    <author>
        <name>webmaster</name>
        <uri>http://cycom.shop-info.com/</uri>
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://kunitachi.town-info.com/people/">
        <![CDATA[<b>トカゲとキツネと森のともだち</b>
<h3>トカゲが主人公の不思議キャラ</h3>
<p>1986年、トカゲを主人公にした、ちょっと変わった絵本が生まれた。
ウサギやネコに比べると、お世辞でもカワイイとはいえないトカゲ。ところがこの主人公の「ちょろりん」、とっても愛嬌があっていつも一生懸命で、ヌメヌメ、ニョロリンと長いシッポの先まで「なんだかいいなあ！」と思えてしまうような不思議キャラクター。たちまち、当時の子どもたちの人気者になった。<br/><br/>
<div style="width:200px; text-align:center; float:right;"><a href="http://kunitachi.town-info.com/people/image/img3-1.html" onclick="window.open('http://kunitachi.town-info.com/people/image/img3-1.html','popup','width=561,height=756,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://kunitachi.town-info.com/people/image/img3-1-thumb.jpg" width="200" height="269" alt="" /></a><br/>表紙『ちょろりんとすてきなセーター』（1986年。福音館書店刊）<br/>
<a href="http://kunitachi.town-info.com/people/image/img3-22.html" onclick="window.open('http://kunitachi.town-info.com/people/image/img3-22.html','popup','width=728,height=550,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://kunitachi.town-info.com/people/image/img3-2-thumb.jpg" width="200" height="151" alt="" /></a><br/>表紙『ちょろりんととっけー』（1990年。福音館書店刊）</div>
</p>
<p>
作者の降矢ななさんは、豊かな想像力と色彩で自然や動物を描く絵本作家。そしてじつは国立育ち。どんな子どもでしたか？</p>
<p>
「小児喘息をもっていたので、外に出て遊ぶよりは家の中で絵を描いているほうが好きでした。馬とかキツネ、オモチャのお人形を主人公にしたお話をよく描いてました。小学校のときには、メモ帳を使って、一枚一枚めくるとコマになって続いていくようなマンガを描いて、友達に見せたり、あげたりして。中学時代は手塚治虫やくらもちふさこが好きで、その頃は将来マンガ家になりたいと思っていたかな」</p>
<p>ママの森幼稚園、三小から一中を経て府中東高校へ。やがて画家であり絵画教室の主宰者としても知られる母親の洋子さんの影響もあって、絵の仕事をしたいと思うようになった。絵本の編集者だった叔母にすすめられて作品の持込みをしたのがきっかけで『めっきらもっきらどおんどん』（作・長谷川摂子 絵・降矢なな）で出版界にデビュー。</p>
<p>「でもはじめのうちは仕事の依頼がくるのは１年に一冊くらいです。それで自分からお話を作ってもっていったのが『ちょろりん』です。これがOKになって、2冊目になりました」</p>
<p>ななさんの生み出すキャラクターは、思いがけない動きでページをいきいきと飛び跳ねる。びっくりしてはホッとし、がっかりしては再び元気をとりもどし、危機一髪で誰かに助けられ、こわそうなおばさんがじつは親切だったり、嫌われ者の虫が頼もしかったり。そこでは子どもたちが本来もっている無邪気な願いや不安、パワフルな想像力や素直ながんばりに、いつもあたたかい目が向けられている。</p>
]]>
        <![CDATA[<h3>スロヴァキアへの留学</h3>
<p>デビューから7年目、ななさんがスロヴァキアの首都、ブラチスラヴァへ旅立ったのは’92年のこと。
「だんだん絵本の仕事の依頼は増えてきていたのですが、同時にもう一度、勉強し直したい、という気持ちがふくらんでいる時期でした。そんな頃、ある人からチェコスロヴァキアの絵本をたくさん見せてもらう機会があったのです。その中にとても魅力的な挿絵の『不思議の国のアリス』を見つけ、驚いて見ていると、その絵を描く人は今ブラチスラヴァの美術大学で教えている、というではありませんか。即座に、その美大へ行きたい！と思ってしまったのです。スロヴァキアの情報なんてほとんどない時代。でも首都のブラチスラヴァは、絵本の原画のビエンナーレが開かれている街なのです。私は小さいときからそのビエンナーレの話は聞いていたので、まったく未知の街へ行く、という気がしませんでした」</p>
<p>ブラチスラヴァはオーストリアとの国境沿いの街。伝統的な石造りの建物が美しい。ブラチスラヴァ絵本ビエンナーレ（BIB）は、東西冷戦時代も政治と関係なく子どもの絵本の世界は手をつなごうという趣旨で、１９６７年から始まった。</p>
<p>スロヴァキア語は日本で文法だけ勉強していったものの、かなり大変だったという。絵を描いていれば済むかといえば、やっぱりそんなわけにはいかない。先生の批評がわからなくて困るし、寮にはいっても大学のシステムがわからない。友達が話も理解できなくて最初は大弱り。それはもう必死に勉強を重ねるしかなかったが、やがて在学中に知り合った夫と結婚するまでに。</p>
<p>「私は、89年にベルリンの壁が壊れて社会主義が崩壊したあとに来たのですが、それでも生活はとても不便でした。物価は日本よりずっと安く助かりましたが、手に入らないものがたくさん。特に画材店が貧しくって、ウィーンに買出しに行っていました。日本に電話するときは、郵便局にいって窓口で申請してかけていました。それが１０年余り経った今では、パソコン、携帯電話、週末も夜８時ごろまで開いている巨大なショッピングセンター、等々。信じられない変化です」</p>
<div style="width:200px; text-align:center; float:right;"><a href="http://kunitachi.town-info.com/people/image/img3-3.html" onclick="window.open('http://kunitachi.town-info.com/people/image/img3-3.html','popup','width=493,height=600,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://kunitachi.town-info.com/people/image/img3-3-thumb.jpg" width="200" height="243" alt="" /></a><br/>表紙『あしたもともだち』（2000年。偕成社刊）</div>
<p>スロヴァキアから「おれたち　ともだち」シリーズ（偕成社）などの作品をあらたに描き続け、現在は、画家である夫と保育園に通う6歳の長女との3人暮らし。</p>
<p>「娘も絵が大好き。家の中で絵を描くことが特別なことじゃないし、画材もあるし、汚しても親はそれに対しては寛容なので（笑）。でも子どもって、見せたがったり、いろいろ話しかけてくるので、一緒に自分の作品を描くのはなかなかむずかしいですね」</p>
<p>「こっちでの暮らしが長くなって感じるのは、日本の絵本の絵は平面的、デザイン的な絵が多いなあ、ということ。しかし私もこちらの人のようには描けません。こちらの生活が長くなるほど、自分の中に日本美術の根っこがあることを強く感じるようになってきています」</p>

<h3>大人も子どもも絵本の世界へ</h3>
<p>ブラチスラヴァは北海道と同じくらいの気候で、今年はもう雪が降った。<br/>
「これまでは、絵だけを提供する作品が多くて、『ちょろりん』みたいに絵も文も自分で、という作品は少なかったのですが、これからは少しずつ自作を増やしていきたいです。でも文章作りが苦手でなかなか１冊の絵本にまとまりません。</p>
<p>今は世界的にグローバル化が進んで、スロバキアも日本も変わらない部分も増えているけれども、だからこそ地域に根ざした人間の生き方が大切に見えます。そんな視点で、スロヴァキアの暮しがベースになるような作品を作れたらいいな、と考えています。こんな大風呂敷を広げて・・・大丈夫なんでしょうかね（笑）」</p>
<p>絵本と向きあう時間は、大人にとっても毎日のあわただしい現実を忘れて、自由な想像の翼を広げた子ども時代に飛べる、ステキな時間。<br/>
もしかしたら目に見えるこの世界だけが、本当ではないのかもしれない。だって、それはひとつの見方にすぎないのだから。ななさんの絵を通して見えるファンタジックな世界は、つかの間、そんなことを信じさせてくれる。<br/>
ユーモアがあって、何にも一生懸命でピュアなキャラクターたちは、デフォルメされているのに、とってもリアル。子どもたちは絵の世界に引き込まれて、暗い森や、不思議な世界の旅人になる。</p>

<p>今回の取材で知ったとっておき情報は、『ちょろりんととっけー』の４～５ページ、ちょろりんが森の中を歩いていくページ、下草や大きな木などの絵は、なんと、一橋大学の中の風景を参考に描いたもの、とのこと！　国立市民の〈降矢ななファン〉はついつい誇らしくなってしまう。（国立市以外の地域のみなさま、自慢してごめんなさい。　m(__)m）<br/>
「子どもの頃は国立ではまだ住宅のまわりには木がいっぱいあったし、特に一橋大学の中には自然がたくさんあって、フェンスを乗り越えて、よく中に入って遊んだのです。まわりにトカゲもいっぱいいましたし、谷保の用水もきれいで、ザリガニ取りやせり摘みにも行きました。最近は、帰国するたびに、国立の景色がどんどん変わるので、びっくりします」</p>

<p>来春には、福生市で〈おれたち　ともだちシリーズの原画展〉があり、地元の作者である内田麟太郎氏の講演も予定されている。それには、たぶん間に合わないが、来年の夏は久しぶりに帰国予定。</p>
<br/>
<b>（取材・文　田中えり子）</b>

]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>ロングインタビュー vol.2 渡邊順生さん</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://kunitachi.town-info.com/people/2005/11/post_1.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kunitachi.town-info.com/MT/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=3/entry_id=2" title="ロングインタビュー vol.2 渡邊順生さん" />
    <id>tag:kunitachi.town-info.com,2005:/people//3.2</id>
    
    <published>2005-11-12T09:54:53Z</published>
    <updated>2005-12-04T07:44:04Z</updated>
    
    <summary>チェンバロへの夢とバロック古楽器基礎講座† 卒業してチェンバロ奏者になったわけは...</summary>
    <author>
        <name>webmaster</name>
        <uri>http://cycom.shop-info.com/</uri>
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://kunitachi.town-info.com/people/">
        <![CDATA[<b>チェンバロへの夢とバロック古楽器基礎講座～</b><br>

<h3>卒業してチェンバロ奏者になったわけは？</h3>
<p>社会学部を選んだのは歴史が好きで、社会科学が総合的に学べると思ったからです。でも本当は音楽大学にも行きたかった。もともとピアノを習っていてオペラが好きだったし、高校3年くらいからはバッハにも夢中になった。でも当時は親が賛成しない。男が音楽で身をたてるなんて無理だ、食べていけないと思っているからです。<br><br>
<img src="http://kunitachi.town-info.com/people/image/watanabe.jpg" width="205" height="320" alt="" />
1969年は学生運動で東大入試のなかった年。一橋大学の入試は英語がむずかしいと聞いて、英語が苦手なので苦労しました。ところが入学したら、全学ストライキ。学生運動にも参加して中央線の駅前でビラ配りもしたけれど、だんだんこれはエネルギーのはけ口を求めているだけ、と思ってばかばかしくなった。だから学生運動を一所懸命やったわけではないが、ひとつだけ、いまだに染み付いているのは「世の中の多数派の意見にはまやかしがある」ということです。<br><br>
当時から一橋大学には７つの帝国大学に対する、「アンチ」の気風があった。アンチ東大、官に対する民、オリジナリティを尊ぶ、などなど。それは学生だけでなく、教授陣の中にもありましたね。<br><br>
ストで授業がほとんどないから、仲間を集めて、自宅でピアノを弾いたり室内楽をやっていました。それで大学3年くらいからだんだん大学に行かなくなった。（笑）<br><br>
というのは、その頃、チェンバロに出会ってしまったのです。シューベルトやブラームスも好きだけど、バッハを弾いているとどうしてもチェンバロを弾きたくなる。授業がないからとアルバイトしていた楽器屋に、たまたま一時的にチェンバロがあって、それを弾かせてもらった。ああ、これがチェンバロの音か、と。<br>
一橋大学をやめて音大に入り直そうか、留学しようかとかさんざん悩みました。でもやっぱり親が認めてくれない。ゼミの先生も「音楽家がひとり誕生するなら協力しましょう」と言って下さいまして（笑）。<br>
チェンバロは、当時は女子のための上野学園大学が唯一、専門コースをもっていたくらいで、あとは芸大にもなかった。学ぶためには外国にいくしかなく、卒業後にすぐ留学しました。<br><br>
</p>

]]>
        <![CDATA[<h3>古楽器になぜ魅力を感じるのですか？</h3>
<p>古楽器にほれ込んだのは、チェンバロを始めて間もない頃からです。<br><br>
たとえば、ピアノは太い弦を柔らかいものでたたく、減衰しないように工夫されている。高度にシビライズされた音。何百年にわたって工夫されてきた音です。でも自然界に存在する音じゃない。チェンバロは原点に近い。糸を張ってそれをはじく、消えていく。音が単純なのです。不要な圧力をかけずに出せる音。体の中に自然に入ってくる音。弦をはじいてすっと消えていく単純なところに、逆に深いものを感じたり、またロマンを感じたりします。<br><br>
また、管楽器でいえば、現代の木管楽器は円筒管といって、中がまっすぐで一定の音量を保てる。バッハの時代は円錐管、一定の音量を保つのはむずかしいけれど、自然と音をふくらます、減衰させるなど、ニュアンスをつけていくのが楽であり、自然でもあります。<br>
ナチュラルトランペットは現代のトランペットに比べると、軽くてやわらかな音で、ずっと小さな音も出ます。バッハの「ブランデンブルク協奏曲第２番」では、トランペットとリコーダーがアンサンブルをします。ところが現代のトランペットではそんな小さな音は出せない。リコーダーとでは、音量のバランスを取るのは全く不可能なのです。<br>
</p>
<h3>楽器ブームは時代の要請か？</h3>
<p>つまり、バロック時代の音楽は表現の仕方、楽器の発音の仕方が違うのです。<br>
いい音とはなにか。どの時代の音楽も法則性がありますが、音の根幹に関わる言葉が違う。<br>
美しいと感じたサウンドが、時代が変わると邪魔になる。美的感覚の変化にともない、ピアノのハンマーも調整されてきたし、弦楽器の弓の形状も変わるなど、楽器もさまざまに改変されてきた。時代時代の表現の狙いがあるのです。<br>
<br>
たしかに今、古楽器は一種のブームでもあります。ヨーロッパでは非常に盛んで、ドイツ、フランスなどの音楽大国でも定着している。<br>
第二次大戦後のクラシックの音楽はだんだん行き詰って、閉塞感を感じる人もいるし、（もちろん感じない人もいますが）ちょうど新しいものを求めようという気持ちが多くの人の中にあった。古い楽器であるにしても、音も新しい、表現も新しい、作曲家は大御所ということで、バッハに新しい方向から光を当てているのです。知られざる名曲が見つかることもある。<br>
演奏者からするともともとの原点に帰って考えよう、という方向なので、自分の現代の奏法に役に立つと思ってはじめた人もいます。でもやるとなると奥が深いので、なかなかもどってこれません。（笑）<br>
<br>
</p>
<h3>人気の高いブランデンブルグ協奏曲について</h3>
<p>1685年に生まれたバッハは、30歳になる前にはバイオリン奏者として、ワイマール市の宮廷楽団のコンサートマスター、楽士長になりました。さらに、2年後には人口わずか2千人のケーテンの楽長になった。才能があっても、食べていくのは大変だったのです。息子たちの教育のためにももっと待遇のいい場所に移りたいと、当時の最有力貴族のひとり、プロイセン王の叔父に当たるブランデンブルグ辺境伯に捧げたのが、この曲です。一種の就職運動ですね。結果的には何も得られなかったのですが、曲のほうは不朽の名作として名を残しました。<br>
<br>
チェンバロはピアノの前身で、それまでは伴奏の楽器でした。華やかな舞台ではいつも縁の下の力持ち。そのチェンバロを、バッハはこのブランデンブルグ協奏曲の5番で独奏させています。その後、いろんな作曲家がピアノを中心にした曲を書き、その後はピアノコンチェルトはあたりまえになりましたが、当時としてはバッハがやったことは、まさに革命的、画期的なことだったのです。<br>
<br>
「ブランデンブルク協奏曲」では、バッハの時代のすべての楽器ではありませんが、殆どの楽器が使われていて、非常に色彩感豊かです。全6曲のうち、4曲を演奏します。バロックバンド21名のなかには、この人しか吹けないというトランペットもありますよ。古楽器の魅力は、ぜひ、実際に聴いてみてください。（談）<br>

<h3>Profile 渡邊順生　わたなべよしお</h3>
<p>学社会学部卒業後、アムステルダム音楽院にてグスタフ・レオンハルトにチェンバロを学び、我が国古楽界の指導的存在として、チェンバロ、フォルテピアノ及びクラヴィコード奏者、指揮者として精力的な演奏活動を展開。欧米の名演奏家・名歌手たちとも多数共演。多数のＣＤや著作を発表。桐朋学園大、国立音大、東京音大他で講師。<br>
</p>

（取材・文まとめ　田中えり子）

]]>
    </content>
</entry>
<entry>
    <title>ロングインタビュー vol.1 前田常作さん</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://kunitachi.town-info.com/people/2005/11/post.html" />
    <link rel="service.edit" type="application/atom+xml" href="http://kunitachi.town-info.com/MT/mt-atom.cgi/weblog/blog_id=3/entry_id=1" title="ロングインタビュー vol.1 前田常作さん" />
    <id>tag:kunitachi.town-info.com,2005:/people//3.1</id>
    
    <published>2005-11-12T09:43:45Z</published>
    <updated>2005-12-07T10:53:42Z</updated>
    
    <summary>■光のマンダラ画 国立市の甲州街道の南にある南養寺（臨済宗建長寺派）境内の観音堂...</summary>
    <author>
        <name>webmaster</name>
        <uri>http://cycom.shop-info.com/</uri>
    </author>
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://kunitachi.town-info.com/people/">
        <![CDATA[<h3>■光のマンダラ画</h3>
<p>国立市の甲州街道の南にある南養寺（臨済宗建長寺派）境内の観音堂。その入り口をくぐると、天井に明るい光がある。見上げれば、その光の源は、一面に描かれた美しいマンダラ画である。<br>
濃紺の深い宇宙の色をベースにした円のなかに、色あざやかに描かれた仏様、祈りの手、天女、花、十二支、そして12の星座。その数64枚。東洋と西洋の星占いが違和感なく親しげに並び、正面の観音像に祈る人々を温かく見守るように、そこから光がさしている。</p>
<div style="width: 250px; text-align:center; float: right;">
<a href="http://kunitachi.town-info.com/people/image/img2-2.html" onclick="window.open('http://kunitachi.town-info.com/people/image/img2-2.html','popup','width=640,height=507,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://kunitachi.town-info.com/people/image/img2-2-thumb.jpg" width="240" height="190" alt="" /></a>●天の浮船　＜観想マンダラ図シリーズ＞<br/>1980－1982 富山県立近代美術館藏<br/><br/>
<a href="http://kunitachi.town-info.com/people/image/img2-3.html" onclick="window.open('http://kunitachi.town-info.com/people/image/img2-3.html','popup','width=416,height=701,scrollbars=no,resizable=no,toolbar=no,directories=no,location=no,menubar=no,status=no,left=0,top=0'); return false"><img src="http://kunitachi.town-info.com/people/image/img2-3-thumb.jpg" width="240" height="404" alt="" /></a><br/>●第十八番　日光山中禅寺<br/>＜坂東巡礼シリーズ＞<br/>1992－2002 （株）ヤマゲン蔵<br/></div>
<p>「こういうのは他にはないのです。むずかしい絵ではなく、見る人がまず自分の星座を探して喜ぶ気持ちになったら、それだけでその人は観音様に近づくと私は思うのです。禅宗のお寺なのに、宗派の形式にとらわれずに自由に描かせてもらって、とても感謝しています」とおっしゃる前田常作さん。<br>
宇宙につらなるすべてのものをあらわす、身近なマンダラ。天井画は、ひたすらマンダラを描き続けてきた前田さんが、３年がかりで完成させた光のメッセージなのである。※<br>
</p>
]]>
        <![CDATA[<h3>■フランスでの運命のひとこと</h3>
<p>かつて北区滝野川小学校の美術教師だった前田さんが、フランスに旅立ったのは1958
年、32歳のとき。第一回アジア青年美術展に出品した作品が大賞を射止め、その副賞がみなの憧れのパリ留学であった。飛行機代が高かった当時、横浜から船でフランスへ旅立つ。<br>
「その船には日本から休暇でフランスへ帰る神父さんが10数人乗っていて、フランス語を学ぼうとして、なんとかオカネの数え方だけはうまくなりました。（笑）すばらしかったのはエジプトです。スエズ運河の入り口で降りて、そこからカイロまでタクシーで行った。鉄砲をもった護衛の兵隊がついて、美術館を見たり、ナイル川のほとりで食事したり。ナイル川で見た太陽は、じつに大きくてねえ。それからまた船で地中海を渡って、結局パリまで30日以上かかりました。今ならとても贅沢な旅といえますね」<br>
<br>
それから何度か里帰りをしつつ、足かけ７、8年をフランスで暮らす。アンドレ・マルロー（文化相）が考えた世界の青年たちのためのビエンナーレにも出展し、前田さんの絵は売れた。そんなある日、美術評論家であるポーランド生まれのジャレンスキー氏がアトリエを見に来て、≪お前の絵の中にマンダラがある≫と言った。日本では言われたたこともなかった思いがけない言葉。<br>
「最初はなんて古臭いことを言うんだろう、って思いました。マンダラがなんなのか、ほとんど知りませんでしたから」<br>
そののち、パリにあるギメー美術館でアジアのたくさんの密教マンダラに出会い、やがて導かれるようにマンダラ巡礼の道を歩みはじめた前田さんだが、このとき、この異国の一人の人間のひとことがなかったら、運命はもっと違う道を用意していたかもしれない。<br><br>
</p>
<h3>■原点は、戦争の体験</h3>
<p>でもなぜ、それほどマンダラに？<br>
「私がこの仕事をするようになった最初のきっかけは、じつは戦争の体験にあるのです」<br>
終戦の年の7月1日、学徒兵として、故郷の富山の連隊に入隊。空襲があると市民を誘導する市民誘導班だった。8月１日、長岡が激しい空襲にあったあと、富山も爆撃された。<br>
「それはもうすごかったんです。神通川という大きな川がある。そこに市民を誘導していたら、焼夷弾の先の鉄管が水の上をピュッピュッと走って、一緒に入隊した慶応大学の学生の眉間に当たった。その横に二人のおばあちゃんがいて、兵隊さん、戦争は勝ちますかい、と聞くんですね。隊長が大丈夫だ、というと、『なんまん、なんまん』と手を合わせて言う。富山は浄土真宗の信仰があついところで、『南無阿弥陀仏』をなんまん、なんまん、といって念仏を唱えます。私は今日まで、そのおばあさんの『なんまん、なんまん』が耳について、ずっと忘れられない。今でも絵を描くとき、聞こえます」<br>
<br>
前田さんの心に残るもうひとつの出来事は、広島への原爆投下だった。8月6日の惨劇。戦後になって原民喜さんの『夏の花』という岩波文庫を読み、そこに書かれた「黒い水を求めてケロイド状になった人々がさまよう状況」に自らの空襲体験を重ね合わせた。そして描いたのが、1957年の大作、『夜』という作品である。<br>
中心に、てんとう虫のような昆虫か動物なのか人間なのかわからないものたちが、光を求めて集まっている。そのすべてをのみこんで外へ外へと果てしなく広がっていく円。朝なのに夜の闇のような、むごい体験をもとに描かれた世界。その系列の絵画を、ジャレンスキー氏は≪マンダラ≫と評したのだった。<br>
<br></p>
<h3>■マンダラ巡礼の道</h3>
<p>フランスから帰国した前田さんの作品は、次第に変わっていく。アクリルで鮮やかに描かれたコズミック・アートと呼ばれるような現代的な作品。宇宙の深い青、幾何学的で緻密な図形、あらゆる生物を抱く銀河のイメージ。仏と宇宙をモチーフとする独自のマンダラは、かつての『夜』とは対極の、まばゆい光にあふれる。<br>
さらに1980年代からの前田さんは、日本の三大霊場「西国」「坂東」「秩父」の寺々をめぐり、≪百観音≫巡礼シリーズと呼ばれる１００枚を越える連作に取り組んできた。目を見張るのは、その一枚一枚がすべて異なるイメージで観音像を描いていること。けれども共通するのは、どれもが宇宙の闇に浮かぶ「光」であること。<br>
20年以上かけて、この途方もない作業に打ち込んできた前田さんにとって、マンダラとは何なのか。
「密教では、私たちのからだ自身を小宇宙、外側を大宇宙と呼んでいます。私たちはみんな、からだの中に宇宙をもっている。マンダラとはあらゆる神仏を通して、宇宙を感じることなのです。すべて生きとし生けるものは自分の中にあり、すべては同じなんです」<br>
<br>
すべては同じ、私もあなたも、虫も花も星も太陽も。同じならば戦う必然もなく、土地や財産を奪い合う必要もないのだが……。<br>
みなが利己的にならずにともに助け合い、ともに平和に生きる道はないものか。霊場をめぐる巡礼とは、仏を通して人が自分をみつめる道でもあるのだという。<br>
「それでね、この11月からは、とうとう四国八十八ヵ所をまわろうと計画しているんです。これがきっと僕にとっては最後の仕事になるでしょう。テーマは空海さん。空海は宗教だけではなくて、中国からいろんなことを学んで民のために役立てたらしい。天文学も農業も地形学も。同行二人、白装束の格好で空海さんとともに歩こうと思います」<br>
<br>
パリで出会った彫刻家・伊東淳氏の縁でこのまちに住むようになった。帰国してはじめて国立に来たときは、フランスの町並みを思いださせるような大学通りを見て「日本にこんな場所があるとは驚いた。すばらしい！」と思ったという。このまちの個性を大切にしていきたいと願っている一人である。<br>
<br>
（※観音堂は、残念ながら年に２、3回を除いて原則非公開。次回は大晦日がチャンス！）<br>

<h3>Profile前田常作・まえだじょうさく</h3>
<img src="http://kunitachi.town-info.com/people/image/maeda1.jpg" width="331" height="320" alt="" />
<p>マンダラ画家。武蔵野美術大学前学長。国立市在住。<br>
1926年富山生まれ。武蔵野美術学校（現・武蔵野美術大学）にて西洋画を学び、1957年第一回アジア青年美術家展で大賞、国際美術家賞受賞後、翌年渡仏。（～66年）<br>
1994年武蔵野美術大学学長、2000年同理事長を経て、現在は創造学園大学客員教授。<br>
日本美術家連盟理事。1979年日本芸術大賞をはじめ受賞多数。2000年勲三等瑞宝章。2004年円空賞を受賞。<br>
<br>
</p>

<b>（取材・文　田中えり子）</b>]]>
    </content>
</entry>

</feed> 

