ロングインタビュー vol.4 南養寺 前住職 佐伯啓史さん

JR南武線の矢川駅から南に歩いて5分あまり。甲州街道を越えた先、左手に見えてくるお寺が「谷保山南養寺」(臨済宗建長寺派 1347年開創)。北鎌倉の建長寺を本山とする禅寺で、谷保を中心とした檀家衆の心の拠り所として、650年前からこの地にある。 今回の主役は、その南養寺の前住職、佐伯啓史(さえきひろぶみ)さん(75歳)。

谷保の念仏講とご詠歌

太い木の柱のどっしりした山門をくぐると、静かで落ち着いた境内がある。2006年2月15日の午後。寺の本堂には、檀家の女性たち40人ほどが集っていた。
今日はお念仏の講の日。本尊の前で佐伯さんが般若心経をとなえ、続いて全員が唱和する、というのが「お念仏」である。
「今、はじまるお念仏は云々……ナンム、アンミ、ダ~ブツ(南無阿弥陀仏)、アミダ~ブツ~。ナンム、アンミ、ダ~ブツ、アミダ~ブツ~」。
独特の節回しで繰り返し唱和される「お念仏」に、時折、それぞれが手にもつ白銀の小さな鐘が一斉にジーンと鳴らされる。その響き、振動は耳に心地よくしみわたり、聞いているといつのまにか日常のざわつきを忘れ、不思議とだんだん気持ちが落ち着いてくる。

「お念仏」は、座禅と同じく「悟り」をひらくための行のひとつ。佐伯さんによれば、 「禅宗というのは、自己本来の中にある仏様の働きに目覚めて、それを日常生活に活かしていこうという宗派なのです。つまり信仰というより、悟りを願う。悟りとは、言葉でいえば、カラッとした何もないせいせいとした状態。こだわりのない解放された瞬間。般若心経で空という状態を、臨済宗では、無といいます。無であって一切であって、すべてであるけど何もない状態」 じゃあ、それは、とても幸せな状態なのですね? 「いえいえ、幸せであるかどうかも、もうとうに越えているのですよ」と佐伯さん。 あ、なるほど……。

たとえば「お金が欲しい」とか「えらくなりたい」という欲望はもちろんのこと、この「幸せになりたい」という願いも俗世の執着心から生まれる。人は何かに執着があるから悩み、七転八倒する。その苦しみからすべて解放され、無(我)の境地<悟り>に至るために、禅の修行がある。 この念仏講、谷保地区では徳川時代から続く善光寺系統のもので、公式にはお釈迦様の涅槃の2月15日、降誕の4月8日、10月16日の観音様の日、10月22日薬師様の日に、それぞれ開かれている。

この日はさらに、「ご詠歌」の稽古もあった。 「ご詠歌」とは仏様をたたえる歌。キリスト教でいえばゴスペルにあたるものだが、こちらは三十一文字(みそひともじ)の短歌形式で、これにも独特の節回しがあり、七五調の長いものは「和讃」と呼ばれる。 南養寺では代々口承で伝わってきたが、亡くなった佐伯さんの母親が文字として書きまとめ、現在はその譜面をテキストとして使っている。 稽古のあとは、女性たちが持ち寄ったお菓子や果物、煮物などをつまみながら世間話に花が咲き、あちこちで楽しい笑い声がおこる。参加者は、若い方でも50代。ようやく子育てがおわり、これからは親の介護が始まるという方もいるだろう。日常を忘れるひとときをお寺で過ごす。昔ながらの地縁が生きている谷保界隈である。


戦前から戦後にかけての寺の暮らし

明治元年生まれの佐伯さんの義理の祖父は、山岡鉄舟(書家としても名高い幕末の剣士。南養寺の本堂には鉄舟の扁額が飾られている)のお弟子で、籠手どりの名人だった。長い真っ白なひげがまるで仙人のようで、観音堂に畳を敷き、地元の子どもたちに剣道を教えていた。祖父は清貧をつらぬき、冬なのに夏ごろも一枚で一生過ごした、といわれる人だが、やがてこの寺の住職となった先代の父は、清貧をつらぬくにしても、みっともないのはダメだと言い、家族を養う現金収入のために、平行して教職の道も選ぶ。

戦前には十町歩ほどの地主となり、小作料も入る佐伯家であったが、谷保の米はおいしくないからとなかなか売れず、食べていくのは大変だったという。 佐伯さんの妹の澤保子さんによると、「小作の人が戦争に行ったからと返してきた田んぼがありまして、それを母がすることになって、幼かった私はかごに背負われて、四谷新田のところまで毎日、母と通ったのを覚えています。仕事が終わって帰ってくると、お月様が出ていて道はもう真っ暗。年に何度も法事があるわけでもなく、つましい暮らしでした。父が病気のときは、立川からお医者さんが人力車で来るんですけど、一度でいいから乗ってみたいなあ、と子ども心にあこがれていたものです」 戦争がおわると農地解放令で、地主はみな、自分が耕作していた田んぼ以外は手放さざるを得なくなった。 「だから今から考えると、少しでも田んぼをしていてよかったわけですね。村長していた本田さんは大変でした。村長は追放令だし、農地も自分で耕していなかったですから」

戦後も母は稲作を続け、4人の子どもたちの学費を稼ぐためにときに闇で米を売ることもあった。それでも贅沢をしないように暮らしてきたが、あるとき、とうとうその最後の田んぼを手放すことになる。1801年に建てられた本堂の屋根を取り替えることになり、寄付だけではとても足りず、お金が必要になったのだ。 「屋根は萱葺きでしたが、毎年少しずつ萱を換えるためには、檀家の人たちが萱のたくさん生えている稲城あたりまで、牛車でとりに行っていたんです。その人手も経費も大変で、それにかつては10人あまりいた萱葺きの屋根職人もだんだんいなくなった。雨漏りをしのぐために、ところどころトタンでまるでボロ継ぎのように補修していたんです」

昭和56年、本堂の屋根は、現在のような銅葺きとなった。本堂の中の建具は新しいが、柱は200年前の当時のまま。谷保天満宮は天保5年に火災にあっているため、南養寺のほうが40年ほど古いという。現在、本堂、山門、鐘つき堂が市の文化財保護指定となっている。

「生活の中でこそ悟りが深まる」

そんなお寺に育った佐伯さんは「世渡りが上手でない。お寺の息子だからガキ仲間でも柿どろぼうにはなれない。だから人気がないから指導者にもなれない」子だったという。 国立一小から府立二中(現立川高校)を経て、駒沢大学仏教科へ。卒業後は宗教関係の雑誌の編集、原水協の平和運動、仏教者平和懇談会の事務など、いろいろな体験をした。 「常に反主流、反権力の側にいようとしました。宗派を問わず、平和のためにできることをやろうと思っていた。社会実践と信仰は別だという二元論の人もいたが、私は悟りの中にこそ社会実践がはいらないとダメ、という考えです。仏教左派の考えですね」

今から30年前のこと、昭和40年から50年にかけて、谷保に東京都の北多摩下水道2号幹線計画がもちあがったとき、当時、市の社会教育委員をしていた佐伯さんは、その委員職を辞してまで、自ら世話人として反対運動の先鋒に立ったことがある。

その計画が、江戸中期に多摩の新田開発などを手がけ、地域農民のリーダーとして知られる矢澤大堅和尚(臨済宗黄檗宗の僧侶)ゆかりの円成院跡を通るものだったからだ。 「そのがけを崩すのも反対、大堅さんの遺跡をドブにするのも反対しました」。 大堅和尚は、国立市でもその功績が歴史上明確な、唯一の人物。粘り強い反対運動の結果、計画は一部を変更し、平成にはいってから2号幹線は整備された。 「公共事業」と「自然を守る」という課題は、現在でも地域の意見を二分する。今でこそ、貴重な湧水やハケを守ろうという人は少なくないが、当時は反対する人もごくわずか。裏では支持してくれた人もいたが、「坊主を辞めさせる会」ができて、檀家から直訴されたこともある。 「寺の裏の庭を便利な道路にするからと市にいわれて、それにも反対した。開発が悪いわけではないが、大切なものはできるだけ残そう、という気持ち。便利、利益、功利など三利を目指すと、お互いに助け合って暮らそうという気持ちがなくなる」。 今は穏やかなお顔の佐伯さんだが、言うべきことは言う、まっすぐな人なのだ。

3年前、胆のう炎の手術を受けてから、45年間続けた住職を息子の貴文さんに譲った。 今では、毎月のご詠歌の稽古を指導するほか、月に何回かは、鎌倉の建長寺に出向いて「鎌倉流ご詠歌講」の総監として、後進の指導にあたっている。

そのご詠歌を通じて、さまざまな生き方の道を説くのも佐伯さんの役割である。 「たとえば彼岸に先祖をお参りするのは、ただ季節の移り変わりの真ん中、っていう意味だけではないんですね。中道が大切っていうことを言っている。コマでも一番まわっているときが安定しているでしょう。空に凧を揚げるのでも、シッポが長すぎれば落っこちてしまう、軽すぎればまわっちゃう。ちょうど良い加減のところ、つまり人でいえば、その人らしさが一番でるときが一番いい。それが悟りに一番近い状態だということです」

私らしさに目覚めるのが、中道…。 凡人には「悟りへの道」はとても遠そうだけれど、これならば、今の若い人にも通じる言葉かもしれない。

毎日昼の12時、谷保界隈には、南養寺の鐘つき堂の鐘が必ず聞こえる。 戦後になっても変わらない、国立南部の暮らしの風景である。

(取材・文 田中えり子)

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