ロングインタビュー vol.1 前田常作さん

■光のマンダラ画

国立市の甲州街道の南にある南養寺(臨済宗建長寺派)境内の観音堂。その入り口をくぐると、天井に明るい光がある。見上げれば、その光の源は、一面に描かれた美しいマンダラ画である。
濃紺の深い宇宙の色をベースにした円のなかに、色あざやかに描かれた仏様、祈りの手、天女、花、十二支、そして12の星座。その数64枚。東洋と西洋の星占いが違和感なく親しげに並び、正面の観音像に祈る人々を温かく見守るように、そこから光がさしている。

●天の浮船 <観想マンダラ図シリーズ>
1980-1982 富山県立近代美術館藏


●第十八番 日光山中禅寺
<坂東巡礼シリーズ>
1992-2002 (株)ヤマゲン蔵

「こういうのは他にはないのです。むずかしい絵ではなく、見る人がまず自分の星座を探して喜ぶ気持ちになったら、それだけでその人は観音様に近づくと私は思うのです。禅宗のお寺なのに、宗派の形式にとらわれずに自由に描かせてもらって、とても感謝しています」とおっしゃる前田常作さん。
宇宙につらなるすべてのものをあらわす、身近なマンダラ。天井画は、ひたすらマンダラを描き続けてきた前田さんが、3年がかりで完成させた光のメッセージなのである。※

■フランスでの運命のひとこと

かつて北区滝野川小学校の美術教師だった前田さんが、フランスに旅立ったのは1958 年、32歳のとき。第一回アジア青年美術展に出品した作品が大賞を射止め、その副賞がみなの憧れのパリ留学であった。飛行機代が高かった当時、横浜から船でフランスへ旅立つ。
「その船には日本から休暇でフランスへ帰る神父さんが10数人乗っていて、フランス語を学ぼうとして、なんとかオカネの数え方だけはうまくなりました。(笑)すばらしかったのはエジプトです。スエズ運河の入り口で降りて、そこからカイロまでタクシーで行った。鉄砲をもった護衛の兵隊がついて、美術館を見たり、ナイル川のほとりで食事したり。ナイル川で見た太陽は、じつに大きくてねえ。それからまた船で地中海を渡って、結局パリまで30日以上かかりました。今ならとても贅沢な旅といえますね」

それから何度か里帰りをしつつ、足かけ7、8年をフランスで暮らす。アンドレ・マルロー(文化相)が考えた世界の青年たちのためのビエンナーレにも出展し、前田さんの絵は売れた。そんなある日、美術評論家であるポーランド生まれのジャレンスキー氏がアトリエを見に来て、≪お前の絵の中にマンダラがある≫と言った。日本では言われたたこともなかった思いがけない言葉。
「最初はなんて古臭いことを言うんだろう、って思いました。マンダラがなんなのか、ほとんど知りませんでしたから」
そののち、パリにあるギメー美術館でアジアのたくさんの密教マンダラに出会い、やがて導かれるようにマンダラ巡礼の道を歩みはじめた前田さんだが、このとき、この異国の一人の人間のひとことがなかったら、運命はもっと違う道を用意していたかもしれない。

■原点は、戦争の体験

でもなぜ、それほどマンダラに?
「私がこの仕事をするようになった最初のきっかけは、じつは戦争の体験にあるのです」
終戦の年の7月1日、学徒兵として、故郷の富山の連隊に入隊。空襲があると市民を誘導する市民誘導班だった。8月1日、長岡が激しい空襲にあったあと、富山も爆撃された。
「それはもうすごかったんです。神通川という大きな川がある。そこに市民を誘導していたら、焼夷弾の先の鉄管が水の上をピュッピュッと走って、一緒に入隊した慶応大学の学生の眉間に当たった。その横に二人のおばあちゃんがいて、兵隊さん、戦争は勝ちますかい、と聞くんですね。隊長が大丈夫だ、というと、『なんまん、なんまん』と手を合わせて言う。富山は浄土真宗の信仰があついところで、『南無阿弥陀仏』をなんまん、なんまん、といって念仏を唱えます。私は今日まで、そのおばあさんの『なんまん、なんまん』が耳について、ずっと忘れられない。今でも絵を描くとき、聞こえます」

前田さんの心に残るもうひとつの出来事は、広島への原爆投下だった。8月6日の惨劇。戦後になって原民喜さんの『夏の花』という岩波文庫を読み、そこに書かれた「黒い水を求めてケロイド状になった人々がさまよう状況」に自らの空襲体験を重ね合わせた。そして描いたのが、1957年の大作、『夜』という作品である。
中心に、てんとう虫のような昆虫か動物なのか人間なのかわからないものたちが、光を求めて集まっている。そのすべてをのみこんで外へ外へと果てしなく広がっていく円。朝なのに夜の闇のような、むごい体験をもとに描かれた世界。その系列の絵画を、ジャレンスキー氏は≪マンダラ≫と評したのだった。

■マンダラ巡礼の道

フランスから帰国した前田さんの作品は、次第に変わっていく。アクリルで鮮やかに描かれたコズミック・アートと呼ばれるような現代的な作品。宇宙の深い青、幾何学的で緻密な図形、あらゆる生物を抱く銀河のイメージ。仏と宇宙をモチーフとする独自のマンダラは、かつての『夜』とは対極の、まばゆい光にあふれる。
さらに1980年代からの前田さんは、日本の三大霊場「西国」「坂東」「秩父」の寺々をめぐり、≪百観音≫巡礼シリーズと呼ばれる100枚を越える連作に取り組んできた。目を見張るのは、その一枚一枚がすべて異なるイメージで観音像を描いていること。けれども共通するのは、どれもが宇宙の闇に浮かぶ「光」であること。
20年以上かけて、この途方もない作業に打ち込んできた前田さんにとって、マンダラとは何なのか。 「密教では、私たちのからだ自身を小宇宙、外側を大宇宙と呼んでいます。私たちはみんな、からだの中に宇宙をもっている。マンダラとはあらゆる神仏を通して、宇宙を感じることなのです。すべて生きとし生けるものは自分の中にあり、すべては同じなんです」

すべては同じ、私もあなたも、虫も花も星も太陽も。同じならば戦う必然もなく、土地や財産を奪い合う必要もないのだが……。
みなが利己的にならずにともに助け合い、ともに平和に生きる道はないものか。霊場をめぐる巡礼とは、仏を通して人が自分をみつめる道でもあるのだという。
「それでね、この11月からは、とうとう四国八十八ヵ所をまわろうと計画しているんです。これがきっと僕にとっては最後の仕事になるでしょう。テーマは空海さん。空海は宗教だけではなくて、中国からいろんなことを学んで民のために役立てたらしい。天文学も農業も地形学も。同行二人、白装束の格好で空海さんとともに歩こうと思います」

パリで出会った彫刻家・伊東淳氏の縁でこのまちに住むようになった。帰国してはじめて国立に来たときは、フランスの町並みを思いださせるような大学通りを見て「日本にこんな場所があるとは驚いた。すばらしい!」と思ったという。このまちの個性を大切にしていきたいと願っている一人である。

(※観音堂は、残念ながら年に2、3回を除いて原則非公開。次回は大晦日がチャンス!)

Profile前田常作・まえだじょうさく

マンダラ画家。武蔵野美術大学前学長。国立市在住。
1926年富山生まれ。武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)にて西洋画を学び、1957年第一回アジア青年美術家展で大賞、国際美術家賞受賞後、翌年渡仏。(~66年)
1994年武蔵野美術大学学長、2000年同理事長を経て、現在は創造学園大学客員教授。
日本美術家連盟理事。1979年日本芸術大賞をはじめ受賞多数。2000年勲三等瑞宝章。2004年円空賞を受賞。

(取材・文 田中えり子)