メイン | 2005年12月 »

2005年11月12日

ロングインタビュー vol.2 渡邊順生さん

チェンバロへの夢とバロック古楽器基礎講座~

卒業してチェンバロ奏者になったわけは?

社会学部を選んだのは歴史が好きで、社会科学が総合的に学べると思ったからです。でも本当は音楽大学にも行きたかった。もともとピアノを習っていてオペラが好きだったし、高校3年くらいからはバッハにも夢中になった。でも当時は親が賛成しない。男が音楽で身をたてるなんて無理だ、食べていけないと思っているからです。

1969年は学生運動で東大入試のなかった年。一橋大学の入試は英語がむずかしいと聞いて、英語が苦手なので苦労しました。ところが入学したら、全学ストライキ。学生運動にも参加して中央線の駅前でビラ配りもしたけれど、だんだんこれはエネルギーのはけ口を求めているだけ、と思ってばかばかしくなった。だから学生運動を一所懸命やったわけではないが、ひとつだけ、いまだに染み付いているのは「世の中の多数派の意見にはまやかしがある」ということです。

当時から一橋大学には7つの帝国大学に対する、「アンチ」の気風があった。アンチ東大、官に対する民、オリジナリティを尊ぶ、などなど。それは学生だけでなく、教授陣の中にもありましたね。

ストで授業がほとんどないから、仲間を集めて、自宅でピアノを弾いたり室内楽をやっていました。それで大学3年くらいからだんだん大学に行かなくなった。(笑)

というのは、その頃、チェンバロに出会ってしまったのです。シューベルトやブラームスも好きだけど、バッハを弾いているとどうしてもチェンバロを弾きたくなる。授業がないからとアルバイトしていた楽器屋に、たまたま一時的にチェンバロがあって、それを弾かせてもらった。ああ、これがチェンバロの音か、と。
一橋大学をやめて音大に入り直そうか、留学しようかとかさんざん悩みました。でもやっぱり親が認めてくれない。ゼミの先生も「音楽家がひとり誕生するなら協力しましょう」と言って下さいまして(笑)。
チェンバロは、当時は女子のための上野学園大学が唯一、専門コースをもっていたくらいで、あとは芸大にもなかった。学ぶためには外国にいくしかなく、卒業後にすぐ留学しました。

古楽器になぜ魅力を感じるのですか?

古楽器にほれ込んだのは、チェンバロを始めて間もない頃からです。

たとえば、ピアノは太い弦を柔らかいものでたたく、減衰しないように工夫されている。高度にシビライズされた音。何百年にわたって工夫されてきた音です。でも自然界に存在する音じゃない。チェンバロは原点に近い。糸を張ってそれをはじく、消えていく。音が単純なのです。不要な圧力をかけずに出せる音。体の中に自然に入ってくる音。弦をはじいてすっと消えていく単純なところに、逆に深いものを感じたり、またロマンを感じたりします。

また、管楽器でいえば、現代の木管楽器は円筒管といって、中がまっすぐで一定の音量を保てる。バッハの時代は円錐管、一定の音量を保つのはむずかしいけれど、自然と音をふくらます、減衰させるなど、ニュアンスをつけていくのが楽であり、自然でもあります。
ナチュラルトランペットは現代のトランペットに比べると、軽くてやわらかな音で、ずっと小さな音も出ます。バッハの「ブランデンブルク協奏曲第2番」では、トランペットとリコーダーがアンサンブルをします。ところが現代のトランペットではそんな小さな音は出せない。リコーダーとでは、音量のバランスを取るのは全く不可能なのです。

楽器ブームは時代の要請か?

つまり、バロック時代の音楽は表現の仕方、楽器の発音の仕方が違うのです。
いい音とはなにか。どの時代の音楽も法則性がありますが、音の根幹に関わる言葉が違う。
美しいと感じたサウンドが、時代が変わると邪魔になる。美的感覚の変化にともない、ピアノのハンマーも調整されてきたし、弦楽器の弓の形状も変わるなど、楽器もさまざまに改変されてきた。時代時代の表現の狙いがあるのです。

たしかに今、古楽器は一種のブームでもあります。ヨーロッパでは非常に盛んで、ドイツ、フランスなどの音楽大国でも定着している。
第二次大戦後のクラシックの音楽はだんだん行き詰って、閉塞感を感じる人もいるし、(もちろん感じない人もいますが)ちょうど新しいものを求めようという気持ちが多くの人の中にあった。古い楽器であるにしても、音も新しい、表現も新しい、作曲家は大御所ということで、バッハに新しい方向から光を当てているのです。知られざる名曲が見つかることもある。
演奏者からするともともとの原点に帰って考えよう、という方向なので、自分の現代の奏法に役に立つと思ってはじめた人もいます。でもやるとなると奥が深いので、なかなかもどってこれません。(笑)

人気の高いブランデンブルグ協奏曲について

1685年に生まれたバッハは、30歳になる前にはバイオリン奏者として、ワイマール市の宮廷楽団のコンサートマスター、楽士長になりました。さらに、2年後には人口わずか2千人のケーテンの楽長になった。才能があっても、食べていくのは大変だったのです。息子たちの教育のためにももっと待遇のいい場所に移りたいと、当時の最有力貴族のひとり、プロイセン王の叔父に当たるブランデンブルグ辺境伯に捧げたのが、この曲です。一種の就職運動ですね。結果的には何も得られなかったのですが、曲のほうは不朽の名作として名を残しました。

チェンバロはピアノの前身で、それまでは伴奏の楽器でした。華やかな舞台ではいつも縁の下の力持ち。そのチェンバロを、バッハはこのブランデンブルグ協奏曲の5番で独奏させています。その後、いろんな作曲家がピアノを中心にした曲を書き、その後はピアノコンチェルトはあたりまえになりましたが、当時としてはバッハがやったことは、まさに革命的、画期的なことだったのです。

「ブランデンブルク協奏曲」では、バッハの時代のすべての楽器ではありませんが、殆どの楽器が使われていて、非常に色彩感豊かです。全6曲のうち、4曲を演奏します。バロックバンド21名のなかには、この人しか吹けないというトランペットもありますよ。古楽器の魅力は、ぜひ、実際に聴いてみてください。(談)

Profile 渡邊順生 わたなべよしお

学社会学部卒業後、アムステルダム音楽院にてグスタフ・レオンハルトにチェンバロを学び、我が国古楽界の指導的存在として、チェンバロ、フォルテピアノ及びクラヴィコード奏者、指揮者として精力的な演奏活動を展開。欧米の名演奏家・名歌手たちとも多数共演。多数のCDや著作を発表。桐朋学園大、国立音大、東京音大他で講師。

(取材・文まとめ 田中えり子)

ロングインタビュー vol.1 前田常作さん

■光のマンダラ画

国立市の甲州街道の南にある南養寺(臨済宗建長寺派)境内の観音堂。その入り口をくぐると、天井に明るい光がある。見上げれば、その光の源は、一面に描かれた美しいマンダラ画である。
濃紺の深い宇宙の色をベースにした円のなかに、色あざやかに描かれた仏様、祈りの手、天女、花、十二支、そして12の星座。その数64枚。東洋と西洋の星占いが違和感なく親しげに並び、正面の観音像に祈る人々を温かく見守るように、そこから光がさしている。

●天の浮船 <観想マンダラ図シリーズ>
1980-1982 富山県立近代美術館藏


●第十八番 日光山中禅寺
<坂東巡礼シリーズ>
1992-2002 (株)ヤマゲン蔵

「こういうのは他にはないのです。むずかしい絵ではなく、見る人がまず自分の星座を探して喜ぶ気持ちになったら、それだけでその人は観音様に近づくと私は思うのです。禅宗のお寺なのに、宗派の形式にとらわれずに自由に描かせてもらって、とても感謝しています」とおっしゃる前田常作さん。
宇宙につらなるすべてのものをあらわす、身近なマンダラ。天井画は、ひたすらマンダラを描き続けてきた前田さんが、3年がかりで完成させた光のメッセージなのである。※

■フランスでの運命のひとこと

かつて北区滝野川小学校の美術教師だった前田さんが、フランスに旅立ったのは1958 年、32歳のとき。第一回アジア青年美術展に出品した作品が大賞を射止め、その副賞がみなの憧れのパリ留学であった。飛行機代が高かった当時、横浜から船でフランスへ旅立つ。
「その船には日本から休暇でフランスへ帰る神父さんが10数人乗っていて、フランス語を学ぼうとして、なんとかオカネの数え方だけはうまくなりました。(笑)すばらしかったのはエジプトです。スエズ運河の入り口で降りて、そこからカイロまでタクシーで行った。鉄砲をもった護衛の兵隊がついて、美術館を見たり、ナイル川のほとりで食事したり。ナイル川で見た太陽は、じつに大きくてねえ。それからまた船で地中海を渡って、結局パリまで30日以上かかりました。今ならとても贅沢な旅といえますね」

それから何度か里帰りをしつつ、足かけ7、8年をフランスで暮らす。アンドレ・マルロー(文化相)が考えた世界の青年たちのためのビエンナーレにも出展し、前田さんの絵は売れた。そんなある日、美術評論家であるポーランド生まれのジャレンスキー氏がアトリエを見に来て、≪お前の絵の中にマンダラがある≫と言った。日本では言われたたこともなかった思いがけない言葉。
「最初はなんて古臭いことを言うんだろう、って思いました。マンダラがなんなのか、ほとんど知りませんでしたから」
そののち、パリにあるギメー美術館でアジアのたくさんの密教マンダラに出会い、やがて導かれるようにマンダラ巡礼の道を歩みはじめた前田さんだが、このとき、この異国の一人の人間のひとことがなかったら、運命はもっと違う道を用意していたかもしれない。

■原点は、戦争の体験

でもなぜ、それほどマンダラに?
「私がこの仕事をするようになった最初のきっかけは、じつは戦争の体験にあるのです」
終戦の年の7月1日、学徒兵として、故郷の富山の連隊に入隊。空襲があると市民を誘導する市民誘導班だった。8月1日、長岡が激しい空襲にあったあと、富山も爆撃された。
「それはもうすごかったんです。神通川という大きな川がある。そこに市民を誘導していたら、焼夷弾の先の鉄管が水の上をピュッピュッと走って、一緒に入隊した慶応大学の学生の眉間に当たった。その横に二人のおばあちゃんがいて、兵隊さん、戦争は勝ちますかい、と聞くんですね。隊長が大丈夫だ、というと、『なんまん、なんまん』と手を合わせて言う。富山は浄土真宗の信仰があついところで、『南無阿弥陀仏』をなんまん、なんまん、といって念仏を唱えます。私は今日まで、そのおばあさんの『なんまん、なんまん』が耳について、ずっと忘れられない。今でも絵を描くとき、聞こえます」

前田さんの心に残るもうひとつの出来事は、広島への原爆投下だった。8月6日の惨劇。戦後になって原民喜さんの『夏の花』という岩波文庫を読み、そこに書かれた「黒い水を求めてケロイド状になった人々がさまよう状況」に自らの空襲体験を重ね合わせた。そして描いたのが、1957年の大作、『夜』という作品である。
中心に、てんとう虫のような昆虫か動物なのか人間なのかわからないものたちが、光を求めて集まっている。そのすべてをのみこんで外へ外へと果てしなく広がっていく円。朝なのに夜の闇のような、むごい体験をもとに描かれた世界。その系列の絵画を、ジャレンスキー氏は≪マンダラ≫と評したのだった。

■マンダラ巡礼の道

フランスから帰国した前田さんの作品は、次第に変わっていく。アクリルで鮮やかに描かれたコズミック・アートと呼ばれるような現代的な作品。宇宙の深い青、幾何学的で緻密な図形、あらゆる生物を抱く銀河のイメージ。仏と宇宙をモチーフとする独自のマンダラは、かつての『夜』とは対極の、まばゆい光にあふれる。
さらに1980年代からの前田さんは、日本の三大霊場「西国」「坂東」「秩父」の寺々をめぐり、≪百観音≫巡礼シリーズと呼ばれる100枚を越える連作に取り組んできた。目を見張るのは、その一枚一枚がすべて異なるイメージで観音像を描いていること。けれども共通するのは、どれもが宇宙の闇に浮かぶ「光」であること。
20年以上かけて、この途方もない作業に打ち込んできた前田さんにとって、マンダラとは何なのか。 「密教では、私たちのからだ自身を小宇宙、外側を大宇宙と呼んでいます。私たちはみんな、からだの中に宇宙をもっている。マンダラとはあらゆる神仏を通して、宇宙を感じることなのです。すべて生きとし生けるものは自分の中にあり、すべては同じなんです」

すべては同じ、私もあなたも、虫も花も星も太陽も。同じならば戦う必然もなく、土地や財産を奪い合う必要もないのだが……。
みなが利己的にならずにともに助け合い、ともに平和に生きる道はないものか。霊場をめぐる巡礼とは、仏を通して人が自分をみつめる道でもあるのだという。
「それでね、この11月からは、とうとう四国八十八ヵ所をまわろうと計画しているんです。これがきっと僕にとっては最後の仕事になるでしょう。テーマは空海さん。空海は宗教だけではなくて、中国からいろんなことを学んで民のために役立てたらしい。天文学も農業も地形学も。同行二人、白装束の格好で空海さんとともに歩こうと思います」

パリで出会った彫刻家・伊東淳氏の縁でこのまちに住むようになった。帰国してはじめて国立に来たときは、フランスの町並みを思いださせるような大学通りを見て「日本にこんな場所があるとは驚いた。すばらしい!」と思ったという。このまちの個性を大切にしていきたいと願っている一人である。

(※観音堂は、残念ながら年に2、3回を除いて原則非公開。次回は大晦日がチャンス!)

Profile前田常作・まえだじょうさく

マンダラ画家。武蔵野美術大学前学長。国立市在住。
1926年富山生まれ。武蔵野美術学校(現・武蔵野美術大学)にて西洋画を学び、1957年第一回アジア青年美術家展で大賞、国際美術家賞受賞後、翌年渡仏。(~66年)
1994年武蔵野美術大学学長、2000年同理事長を経て、現在は創造学園大学客員教授。
日本美術家連盟理事。1979年日本芸術大賞をはじめ受賞多数。2000年勲三等瑞宝章。2004年円空賞を受賞。

(取材・文 田中えり子)