2006年01月26日

10.東京高等音楽学院

 東京高等音楽学院(現、国立音楽大学) は堤康次郎の勧めにより国立大学町に開校することになった。早速大正15年5月、 先に述べた新宿園にあった施設を仮校舎として授業を開始した。同年7月4日、大学町の東の高台(東二線通りのつきあたり) にできた野外音楽堂で第1回野外音楽会が開催された時には、学院生も混声合唱を行っている。 堤康次郎にせきたてられるように商大より一足早く国立に移り、箱根土地(株) の建てた模範住宅を使って授業しながら新校舎の落成を待ち、11月23日落成記念式を開いた。大正15年度に5名、 昭和2年度に4名、昭和3年度に33名の卒業生を送り出している。学院は富士見通り入口から900m進んだ場所にあり、 富士見通り商店街の方が人の流れを見込める分、旭通りより発展を早めさせたとされる。

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2006年01月24日

9.国立の商店のパイオニア(Ⅰ)

・関屋  

 関喜太郎は明治24年生まれで、谷保村に代々続く関一族の出である。非常に商才のあった人物で、明治43年9月、 下谷保の関家の一角で、使い勝手のよい関式釜を考案して販売したが、評判も良く、よく売れたそうである。その後大正10年4月、 北島虎吉の土地50坪を借りて(1ヶ月1円の地代)、商売を始めた。そして間もなく、国立大学町の開発が始まった。この頃、 関喜太郎は30代半ば、商人として今までの経験を生かしながら、商売替えをするのに最適な年齢であった。酒や味噌類を売ることについては、 箱根土地(株)の方から要請があったそうである。店が早くできてほしいのは箱根土地(株)であった。大正15年、 一般分譲を開始した直後の3月25日、旭通り(その頃は如水通りと名づけられ、昭和2年朝日通りとなり、さらにその後旭通りとなった) 入口から約20m入った左側(今の「国立写真店」のあたり)で、関喜太郎は店舗をもって「関屋」(酒、味噌、醤油、雑貨)と号した。同じ頃、 鈴木という老夫婦が旭通の向かい側に呑み屋を開き、間もなく「福田屋」という同じ酒や醤油を扱う店が本建築で開店したが、 いずれも存続期間が短く、国立大学町に開店し根をおろした第1号店は「関屋」であると言えるだろう。得意先となる住民もまだ居らず、 商売の相手は専ら造成工事中の、多いときは1,000人とも2,000人ともいわれる土建業に携わる人や箱根土地(株)の社員であり、 その食堂であった。間もなく露店商も多く出るようになり、商人の中には開発中の造成地で、多くの人の目に止まるところに移動しながら、 野菜や雑貨、足袋、軍手などを売り、いつか大学町内に店をもつことを期している者もいたのである。どんな形であれ、 この頃の商人はじっと店で客を待つ商売ではなく、現場に行って親方や土工達と天候やら仕事の進み具合を話しながら、 注文をとったり食堂に御用聞きに行かねばならなかった。店舗を構えた関屋もリヤカーや自転車を引っ張っての商売であった。

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8.新宿園の売却

 庭園、茶寮(食事処)、劇場、 映画館を備えた大人も子供も楽しめる娯楽施設といわれる新宿園とは、どんな所であろうか。園内案内図(実物はカラー印刷) と当時の新聞記事を参考に、想像していただきたい。

 その場所は新宿5丁目、 現在の厚生年金ホールのあたりにあり、大正139月に開園した。 敷地は旧濱野邸であり、屋敷とその日本庭園はそのまま生かして、建物は茶寮(料亭、レストラン) として使用された。 園内には少女劇、童話劇を上演する白鳥座、主に映画を上映する孔雀館、 野外劇場として昼夜利用される庭園劇場の3つの施設がつくられており、 常に新企画による公演がなされた。企画が変わるたびに新聞紙上にその広告が出され、主要出演者の1人は水谷八重子であった。

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2005年12月20日

7.箱根土地(株)の資金繰り

 関東大震災後の土地ブームの終焉と世界的経済不況が始まろうとする中、箱根土地(株)は事業拡大をひとまず中止し、 資金のやりくりでこの時代をくぐりぬけねばならなった。大正15年1月1日から22日の『都新聞』、『東京日々新聞』、『朝日新聞』、 『報知新聞』、『国民新聞』各紙上に、渋谷道玄坂百軒店、目白文化村にある社員住宅と借地権、それに新宿園(庭園、劇場、食堂、 遊戯施設を備えた遊園地)の売却広告を出した。この広告には「国立(くにたち)大学町建設のため」、または 「商大中心100万坪大学町建設のため」という太文字のタイトルがつけられている。大正15年(月日は不明であるが)、箱根土地(株) が社債償還不能で事実上破産状態に陥ったという新聞記事があるくらいであるから、かなり深刻な状況であったことは間違いないが、 堤康次郎はたとえ借金で手に入れた土地であれ、手持ちの数百万坪の不動産を信じ、決して動じなかったと言われている。

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6.箱根土地(株)の経営の悪化

 大正14年11月頃から大学町第2期土地区画工事が始まった。この期間の主な工事は24間道路(1部30間、大学通り)、水源工事、 箱根土地(株)の本社屋、見本(模範)となる商店・住宅(建売住宅)、国立学園小学校等の諸建設である。(この頃から西の開発がはじまる)。

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2005年12月12日

5.開発がはじまる

  大正14年4月13日、谷保村のヤマの用地買収が進み、西野村長より堤康次郎宛てに、買収予定の全土地のうち、買収済み21%、 契約済み43%であることが報告されている。ヤマは村民にとって堆肥となる落葉や、暖房、煮炊きのための薪を産出する場であり、 何よりも先祖代々受け継がれてきた預かりものであり、なかなか手離そうとしない地主たちも多くいたことは否めない。 しかし村長の村全体の発展のためにという説得に、ほとんどの農地所有者は最後には従った。 (やむをえず一部は買収できず雑木林のまま残り、戦後別会社が開発したという)。この年の夏を過ぎた頃、開発予定地100万坪のうち、 第一期分譲地区画の工事が着手された。堤康次郎は、常々土地開発の成功のためには動脈である道路の敷設最重要条件に挙げており、 また自動車社会の将来性を見込んで幅広い道路建設をめざしていた。そのため国立大学町と国分寺駅 (当時国立駅はつくられていなかった) を結ぶ道路建設が第一期の主な工事となった。国立大学町から幅4.5m、 延長2.5kmの道路を、 現在の多摩欄坂を切通しにしながら国分寺駅に至る道を完成させた。 立川へ至る道路はしばらくの間未開通であった。 このような事情もあって国立大学町も、 大学通りの東側から区画造成工事がすすめられたのである。

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4.谷保村と東京商科大学

 国立大学町の中心となる東京商科大学(のちの一橋大学)は、 大正9年、 東京商業高等学校から東京商科大学(以下商大)に昇格した。この時から、手狭なキャンパスを神田から移転することについて、 すでに検討されていた。折りしも大正1291日の関東大震災によって公社が倒壊し、 すぐに商大復興委員会が発足した。それ故、大震災前より移転に必要な情報は、当時の佐野善作学長にいくつか与えられ、 また商大移転の意向は箱根土地(株)の堤康次郎の側にもすでに伝わっていたかも知れない。

 

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3.学園都市構想と中島陟

 大正11年、 別荘地などの大規模土地開発が進む中、一方で東京郊外のサラリーマン向け土地付住宅が安定した利益を生むと考えた堤康次郎は、 まず理想的郊外都市と名づけ、目白文化村の分譲をはじめた。そして次に、学校を中心とする学園都市構想を打ち出し、箱根土地 (株)重役の中島陟(のぼる)をゲッチンゲン他、ヨーロッパの各都市に研修させた。 中島陟は東京外国語大学ドイツ語学を卒業して、宮内庁に勤務していたが、堤康次郎が箱根土地(株)に引き抜いたのである。 ちなみに彼は堤康次郎の妻文の妹婿であり、学園都市事業をはじめ、箱根土地(株) の多くの事業で堤康次郎の信任を受けて仕事をした。彼は大学関係者、学生、 住民が同地域に暮らすための機能上の必要条件とデザインを学んで帰国し、 その見聞知識は国立大学町建設に最もよく生かされることになった。国立大学町開発に先立ち、 大正1311月に大泉学園都市、 大正143月に国分寺大学都市 (のちの小平学園町)の分譲をしているが、国立大学町が約70年経た現在も当時の平面図を最もよく維持している。

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2.堤康次郎

 堤康次郎は、明治22(1889)37日、 滋賀県に農業と麻仲買業を営む、堤猶次郎と妻みをの長男として生まれた。5歳のとき父が腸チフスで急死すると祖父清左衛門は、 嫁のみをを良縁を期するようにと実家へ帰し、康次郎とその妹ふさを手元に置いて大切に育てた。 康次郎は14歳になって、 成績優秀で彦根中学入学の許可を得たが、老いた祖父の願いで中学進学を(可愛がって育ててくれた祖父への自然な恩義から) 断念し、共に農業に従事した。生来、向上心があり、10代半ばにして当時用いられていなかった燐酸肥料に着目して販売したり、 自然のままの畦を四辺形に整備する農地合理化に取り組んだりした。明治39年、 祖父を説得して京都で1年間海軍予備学校で学んだ後、 滋賀県愛知郡庁に勤めていたが、間もなく祖父が死去した。向学への情熱おさえがたく、すぐに受験勉強を始め、 明治42年、 村をあとにして上京、21歳で早稲田大学に入学した。 在学中は弁論部と柔道部に在籍し、柔道は事業家、政治家となった後も続け、57歳の時6段を獲得している。 自宅敷地内に同上をもち、昭和初期、一時期住んだ国立の屋敷内にも柔道場を建てた。

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1.商い事始め

 何ものかの“もの”を売ることで、なりわいの種を得ることを商(あきない)という。 売るものによって商業(野菜、 衣料品、菓子、酒等)、 飲食業(ざるそば、かつ丼、コップ酒等)、工業(土木、電気、住宅建設等)、不動産業(土地、家屋)であったりするが、 その行為はすべて商(あきない)である。土地という大地の平面の一画を切り売りするのも商いであるから、 谷保村の里山ともいうべき雑木林を開拓して、国立(くにたち)大学町として販売した箱根土地株式会社社長堤康次郎は、 これから語る国立市の商圏にかかわった最初の人物として、取り上げなければならないだろう。