・関屋
関喜太郎は明治24年生まれで、谷保村に代々続く関一族の出である。非常に商才のあった人物で、明治43年9月、
下谷保の関家の一角で、使い勝手のよい関式釜を考案して販売したが、評判も良く、よく売れたそうである。その後大正10年4月、
北島虎吉の土地50坪を借りて(1ヶ月1円の地代)、商売を始めた。そして間もなく、国立大学町の開発が始まった。この頃、
関喜太郎は30代半ば、商人として今までの経験を生かしながら、商売替えをするのに最適な年齢であった。酒や味噌類を売ることについては、
箱根土地(株)の方から要請があったそうである。店が早くできてほしいのは箱根土地(株)であった。大正15年、
一般分譲を開始した直後の3月25日、旭通り(その頃は如水通りと名づけられ、昭和2年朝日通りとなり、さらにその後旭通りとなった)
入口から約20m入った左側(今の「国立写真店」のあたり)で、関喜太郎は店舗をもって「関屋」(酒、味噌、醤油、雑貨)と号した。同じ頃、
鈴木という老夫婦が旭通の向かい側に呑み屋を開き、間もなく「福田屋」という同じ酒や醤油を扱う店が本建築で開店したが、
いずれも存続期間が短く、国立大学町に開店し根をおろした第1号店は「関屋」であると言えるだろう。得意先となる住民もまだ居らず、
商売の相手は専ら造成工事中の、多いときは1,000人とも2,000人ともいわれる土建業に携わる人や箱根土地(株)の社員であり、
その食堂であった。間もなく露店商も多く出るようになり、商人の中には開発中の造成地で、多くの人の目に止まるところに移動しながら、
野菜や雑貨、足袋、軍手などを売り、いつか大学町内に店をもつことを期している者もいたのである。どんな形であれ、
この頃の商人はじっと店で客を待つ商売ではなく、現場に行って親方や土工達と天候やら仕事の進み具合を話しながら、
注文をとったり食堂に御用聞きに行かねばならなかった。店舗を構えた関屋もリヤカーや自転車を引っ張っての商売であった。
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